人間というのは、何しらの挑戦のために作業しる人が多いと思います。趣味であっても仕事であっても、人間は何かを発明したり、何かを創造したり、特に革新や改革などが必要のないところにでも進化の手を緩めないのです。それらの物事があまりにも簡単だったり、結果が予測できるようになると、人は飽きてしまい、やり甲斐を模索し始めると思うのです。
昔の写真はフィルムがあり、撮影、現像、プリントまでのプロセスを錬金術の如く学ばなければなりませんでした。その時代のほとんどの人は、実際に共有したい写真と共に、その写真の生成の複雑なプロセスを学び、マスターすることの難しさに惹かれていた部分もあるのだと思います。写真の歴史のある時期から現像技術をマスターするのは難しいが、大判のガラス板の時代ほどではなかったので、使いやすさとやり甲斐のバランスが取れた写真の作業は、多くの人に選ばれる事になりました。1970年代から21世紀の変わり目までは、フィルムの一貫性が高まり、カメラも使いやすくなり、プリントも成熟した技術になりました。
とは言え、それらの作業にはまだまだ時間やリソースや知識を必要としました。
今でこそパソコンの作業となりましたが、写真作成プロセスにおいて、まだまだ多くの知識を必要としており、ワークフローやプロセスを多く実践しなければなりませんでした。また、写真撮影の最初の段階で失敗した画像を「修正」する方法は、今よりもはるかに少ない訳です。熟練者になるためには、撮影の段階からカメラでより多くのことを正しく行わなければなりませんでした。ほとんどの写真家や熱烈なアマチュアの多くのためのプロセスは、まだ時間がかかり、困難であり、情報は単にGoogle検索を開始したり、YouTube上のビデオチュートリアルを見て解決するには程遠い時代でした。例えばですが、真っ暗闇の中でフィルムをリールに装填する際には、直感ではなかなかできない作業です。
フィルムは正しく装填され、メーターが正しく読み込まれ、フォーカスが正しく調整され、色温度を変えるためにフィルターを正しく適用されなければなりませんでした。フィルム感度を高く低くしたりしたい場合は、カメラの装填を解除して装填しなおすか、複数のカメラを持ち歩く必要があり、様々な種類のフィルムがあらかじめ装填されている必要がありました。
一般の人は、細かいことを学ぶことも、必要なお金を使うこともしませんでした。
当時フィルムの時代のほとんどのカメラは、現在のデジタルカメラと比較して手頃な価格であったことは事実ですが、フィルムの膨大なコストがかかりました。それは撮影するためのフレームごとにお金がかかりました。現像タンクに溜まった潜像を何か重大なミスをして台無しにしないようにするためには、経験が必要でしたが、経験を積むためにはそれなりの失敗を重ねなければなりませんでした。
ここ20年ほどの間、写真が趣味の人も写真のプロも、デジタルカメラに移行している方々がほとんどです。デジタル時代の黎明期では、それまでとは別のやり甲斐を見出していた事でしょう。
ところが3〜4年前になると、方々から写真への情熱が薄れてきたという話を耳にするようになりました。それまでのフィルムやフィルムカメラで得られていたやり甲斐よりも、あらゆる面で圧倒的に優れた新技術を駆使して画像を得るという「芸術」を身につけた後は、飽きてしまったのかと想像します。
やり甲斐を写真を撮る作業そのものな職人的な部分に見出していては、昨今のカメラでは物足りない猛者もいるのでしょう。被写体のメッセージや追求すべき被写体がない中で、自分たちの趣味に対する空虚感を感じた人もいるのではないでしょうか。
どんな芸術でも、それに価値があると感じてもらうためには、そのプロセスにある程度のやり甲斐が必要なのではないかと私は考えています。例えば、小説を書くということは、技術の変化に左右されない一連の課題を伴うものです。手書きの原稿からタイプライター、そして今はパソコンのワードプロセッサーと媒体は変わりましたが、小説の根本はそのストーリーや描写の芸術性です。
小説を書く作業は、そのテクノロジーと物語を語るというプロセスとは何の関連性もありません。特別なキーボードで言葉が良くなる訳ではありません。しかし、写真の世界ではテクノロジーと「物語を語る」というプロセスが織り込まれています。テクノロジーの向上によってより簡単に『物語』を作成できることができてしまいます。それ自体はとても良いことです。ただし、写真作成のプロセスや作業のマスターにやり甲斐を見出しているのならば、テクノロジーの向上はそのやり甲斐をも削いでしまうかもしれません。
昨今のデジタルカメラですが、どれも素晴らしいです。どれも技術の向上により、どんどん写真が撮りやすくなっています。
いろんな意味で、写真は仕事をしていない時の「仕事」なんです。やり甲斐を伴う写真は、休み時間や休暇中であっても生産的に見えるという身近な心地よさを感じさせてくれます。
そんなところから、デジタルカメラでありながらもマニュアルフォーカスでレンジファインダーのM型ライカが人気なことや、オールドレンズでの写真も見受けられるようになったのでしょうかね。更にはフィルムで写真を撮る方々も今でも多くいらっしゃる。複雑な作業の中のやり甲斐を探しているのでしょうか。
面白いのは、写真を趣味としている人はフィルムを使っていますが、動画を趣味としている人は16mmフィルムで撮っていない事ですよね。
ここまで言っておいてなんですが、私がSigma fpに興味があるのは、それがフィルムカメラに通ずるめんどくささが感じられるからです。手ぶれ補正は最上級ではない、EVFがない、持っていて面白い、などなど。Sigma fpを使えば写真を撮る時に色々と考え、好きな写真を得るためにもっと働く自分がいるのではないかと期待してしまいます。